ITの使い方が筋違いの日本の書店

筆者は、日本出版学会の理事として、出版界の窮状、そして、その中でも大きな問題である書店の荒廃には心を痛めてきた。もちろん、従来からのテーマである著作権、電子出版、オンライン通販(オンライン書店)、コンテンツビジネス、出版の電子商取引、e-book、ACROBAT、PDF、amazon(アマゾン)のビジネスモデル、'00年11月9日に発表されたKacis(カシス、Knowledge Circulation System。書籍データの著作権保護と電子流通のプラットフォーム)Publisherのビジネススキームなども重要である。修士論文を見ている修士課程の院生ともそういった分野で研究を進めようとしている。

また、IT(情報通信技術)投資のあり方についても、強い興味を持ってきた。出版はもとより、機械、住宅、金融、電力といった業界の経営幹部を対象として、ITの重要性について講演してきた。そうした講演では、(流通については、講演参加者の誰でもが生活の一部として理解しやすいので)クレジットカードとパーソナライゼーション、データウェアハウスといった、ITが流通業界にもたらす便益を例にとって、ITの効果を強調している。日経新聞のIT関連のコンファレンスでもいくつか発言している。
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さらに、後述する電磁誘導を使ったタグの使い方について、製鉄会社と研究プロジェクトを組んだことがあり、11月8日には、生協の人と、電磁誘導タグとITとの組み合わせについて、議論したばかりだった。

だが、そうした最先端の技術の問題だけではなく、出版流通の最前線で何が起きているか、IT投資をする出版経営者の心が荒廃しているとしたら何が起きるのか−−などについても、あらためて認識しなければならないと気付いたのである。

筆者は、いままで、小さな商店街のいわゆるパパママ書店(経営者の高齢化のための爺婆書店と呼んだ方がいい場合すらある)の困窮を中心に考えてきた。出版業界全体で売り上げが低下している上に、近隣商圏ではコンビニエンスストアに、大規模商圏では駅ビルや郊外道路沿いの大型店に顧客を奪われている。そうした経済面での先行き不安と、経営者の高齢化の2つの要因の相乗で閉店が相次いでいる。

しかし今回、ある事件に遭遇して、問題は経済的なものだけではない−−ということを痛感した。大学街で200平米前後もありそうな、大書店と呼んでもいい、中規模以上の書店でも、問題が生じている。それは、経済的というより、経済状況がもたらした一部の経営者のモラルの荒廃である。ITについて言えば、ITを使うかどうかだけを論じても問題は解決しない。ITをどう使うか、経営者が本当に顧客のためを思ってITを使うのか−−それも重要なのだ。経営者の気持ちが欲得づくになってしまえば、同じIT投資を、顧客に迷惑を掛ける方に使い兼ねないという事実に、遭遇したのである。

ある大都市の西北に大きな大学がある。東西に走る鉄道の、大学と同じ駅名の駅から、これも大学と同じ名前の通り沿い、数十メートルのところに、北と南に対峙して2軒の比較的大きな書店がある。成文堂という南側の書店は、クレジットカードが使えて、教員、ビジネスマンにも使いやすい店である。問題は、北側のAブックスである。このAブックスでは、クレジットカードが使えないので、ときどき顔を出す筆者は以前から不便を感じていた。

1冊2000円、3000円の学術書を数冊買うこともある教員の端くれとしては非常に使いにくい。4冊、5冊と1万円近く学術書を買ってから、所持金が足りずに、100m走16秒と、あゆみののろい筆者が銀行に走ったこともある。ただ、出版学会の理事として、売り上げが厳しくなっている書店の状況も知っているので、経済的理由でIT投資(というほど大げさな投資だとも思えないが)に踏み切れないのだろうと、好意的に解釈していた。

出来事は、'00年11月9日に起きた。Aブックスで、2冊の書籍を買って、出ようとドアを通ると、ピーピーと警告音がする。そのとき気がついたのだが、Aブックスでは、CD店やビデオゲーム店にあるような、タグ(荷札)による万引き防止の警告システム(この手のシステムには、前出の電磁誘導タグを使うことが多い。Aブックスのシステムの原理は短時間のためわからなかった)を入れている。IT投資の費用がないわけではないのだ。店の利益確保のための警告ゲートには金を使うが、顧客の利便のためのクレジットカード導入には、金を使いたくないだけなのだ、と判断するのが順当だろう。

さて、支配人とおぼしき、顔の堀野ふかい、苦味走った店員が飛んできた。「ビデオの類を買っていないか」という。ビデオを買った覚えはないので、その旨を説明する。警告音の原因となった手提げの紙袋には、自宅から持ってきた書籍数冊と、ついその10分前に成文堂で買った書籍1冊がある。しかし、筆者はレシートを必ずもらっておく主義なので、疑われても説明ができるとわかっており、慌てはしない。

支配人とおぼしき店員は、「済みません」といいながら、紙袋の中身を調べ始めた。「全部あけて調べてよ」と渡したので、実際、中から全部取り出している。2分もあれば、中に、ビデオの類がなく、新聞と週刊誌と書籍と書類しかないことなどわかる。それから、Aブックスでは雑誌、書籍にはタグをつけていないので、書籍と書類しかないことがわかった時点で、Aブックスの商品が原因でないことがわかるはずなのだ。

「クレジットカードもいれないで、チェックのシステムだけ入れて、金の使い方を間違っているんじゃないの」と、気が済むまで調べたいらしい支配人に筆者が嫌味を言う。一心不乱に調べる支配人。「何か答えたらどうなの」と重ねて聞く筆者に「済みませんって言っているじゃないですか」と開き直って客に向かって怒鳴る支配人。筆者は、謝ってほしいのではなく、「金の使い方を間違っているんじゃないの」という問いに答えて欲しいのである。

「チェックの機械に金を使うんだったら、クレジットカードの仕組み入れてよ」と食い下がる筆者に、「経営者の判断で…」と言葉を濁しながら、調べ続ける。

支配人は、何が原因で鳴っているか、とことん調べたいらしい。書籍と書類しか残っていない時点で、Aブックスの商品が原因でないと、わかっているのにである。しかし、「早く切り上げて行かせてくれ」と言うと、後ろめたいところがあるように思われる可能性があるので(なにしろ相手は、客に怒鳴る支配人である)、嫌味でも言っているしかない。書籍と書類を順番に、警告ゲートのところに持っていってピーピー鳴るか否か、確かめている。やっと原因がわかった。前々日の7日に、中国の上海で買った中国の簡体字で書かれた本に、警告タグシールが貼ってあったのだった。

「お宅では、中国の本、売っていないよね」と嫌味を言う筆者。「ええ…」。何度も繰り返すが、Aブックスでは、書籍にタグを付けていないから、その中国書の類をAブックスで扱っているかどうかに関係なく、書籍と書類しか残っていないのがわかった時点で、Aブックスの商品には関係ないということがわかっているのだ。

結局、客の利便ではなく、警告音が鳴ったことの調査という書店側の理屈で動いているのである。「済みませんって、言っているじゃないですか」…。開き直って、客に向かって怒鳴る支配人である。それも、迷惑しているのは、客の方なのである。「気の済むまで調べてよ」と言って、堂々と全部の持ち物を差し出している時点で、事件のないところに事件を起こしているのが客の方でなく店の方であると気付かなければならない。この支配人の性向は、クレジットカードの仕組みは導入しないが、警告タグと警告ゲートは導入するという経営者の性向が乗り移ったものだろう。システム投資を、客の利便より、店の便益確保に使う方が重要なのである。

大書店といってもいいような、中規模書店でも、経営者の一部には、気持ちの荒廃した人々がいるのであると判断せざるを得ない。IT投資するか否か、そしてその効果だけを論じていた筆者の修行不足だった。一般論として、IT投資をする経営者の心が捻じ曲がっていれば、捻じ曲がったITシステムにしかならないのである。

日本の出版界、日本の産業界の行く末は闇、というしかないのだろうか。

(早稲田大学 国際情報通信研究センター 客員教授 中野潔)


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